若狭(わかさ)の海は与謝(よさ)の海と同じく季節に応じて美しい様相を表す幻想的な海域だ。与謝の海は浦島伝説の伝わる丹後の天の橋立ての内側、天の橋立てを境とした西側にある阿蘇海(あそかい・あそのうみ)を指すが、若狭の海は日本海の深く入り込んだ若狭湾の海域をいい、日本海と三方五湖に囲まれたリアス式海岸になっていて美しい。この若狭湾の景勝地に与謝の海のような龍宮伝説が生まれるのもよく理解できる。ここもまた常世(トコヨ)の世界といえるだろう。

若狭の地は、出雲もそうだが、“常世の神”と縁が深い。“常世の神”とは少名御神(スクナミカミ/少那彦名神:スクナヒコナノカミの意)をいうが、そのことを示すように、神功皇后のウタにも詠まれている。

かつて誉田別皇子(ホンダワケノミコ:後の応神天皇)は、父の仲哀天皇の建てた笥飯宮(ケヒノミヤ:現在の気比神宮)の大神に詣でる機会があって、重臣の武内宿禰(タケノウチスクネ)に連れられて角賀(今の敦賀)に行ったことがあり、皇子がその地での用事を終えて大和に帰ってくると、 母の息長帯比売(オキナガタラシヒメ=後の神功皇后)は御神酒を用意して待っていて、皇子のために宴を催した。そのときに母が皇子に送った次のウタがある。

このみきは(此の御酒は)
あが(吾が:私の)みき(御酒)ならず
くしのかみ(酒の神)
とこよにいます(常世に坐す)
いはたたす(石立たす)
すくなみかみ(少名御神)の
かむほき(神祷ぎ)
ほきくるほし(壽ぎ狂ほし)
とよほき(豊壽ぎ)もとほし(旋廻し)
まつりこし(献り来し)みきぞ(御酒ぞ)
あさずをせ(乾さず飲せ ささ)

この酒は、私の造った酒ではありはしません。
酒の神、常世国(トコヨノクニ)におられます、
天御柱(アメノミハシラ)を立てたる
少名御神(スクナミカミ)の神の祝福、
ただの祝福ではなく、
祝福の言葉など超越するほどの豊かな祝福をされて、
常世の原郷を離れ巡りて献上された神酒なのです。
残すことなくお飲みなさい、さぁさあ、どうぞ。

このウタにあるように、敦賀(広い意味での若狭)の地は常世神が寄り来て祝福を約束する地とされる。少名彦神(スクナヒコナノカミ)は、天乃羅摩船(アメノカガミブネ)に乗って波の彼方から日本にやってきたとされている。波の彼方というのは常世国(トコヨノクニ)のこととしている。その理由は、古文書の一書に、少名彦神(スクナヒコナノカミ)が日本での使命を終えて、常世国へ帰ったと記されているのでそのことが分かる。また、ある古文書には、“龍宮”にトコヨという字が当てられていたりする。この“常世←→龍宮”。古代の人々にとってこの二つは同じ世界を指していたのだ。

〈言葉の解説〉

※常世:常世国(トコヨノクニ)のこと。常若(トコワカ:歳をとらぬ永遠の若さ) が約束された永久(トワ)なる世界。不老不死の命が息づく世界であり、しかも永幸(ナガサキ:いつまでも幸福に満ちた状態)が約束された人類の理想郷。

※カガミはガガイモの実と解釈されていて、カガイモの実を舟にして乗るほど小さな神様だったというところから、スクナヒコは一寸法師のモデルともされているが、カガミのカカは蛇の古語で、ミは身を表す。カガミとは本来“蛇体”を指す言葉。  “蛇体”を“龍体”と置き換えるとするなら、スクナヒコは龍の背に乗ってやって来たことになる。“常世”が“龍宮”なら、そう解釈したほうが壮大で面白い。ガガイモの実を繰り抜いた小舟で日本の海を渡って来るというのはどう考えても無茶な話だ。オオクニヌシ(大国主命)に協力して国土開発に努めた偉大な神がそんなに小さな存在であるはずがなく、何らかの目的で貶められた可能性がある。

  “龍宮”で過ごした浦島太郎がいつまでも歳をとることがなかった伝説にもあるように、“龍宮”は大昔から不老不死の世界として語られてきた。若狭も隣国の丹後と同じく、不老不死にまつわる伝説の地であるが、その一つとして「八百比丘尼(やおびくに)伝説」がある。

ある日、若狭に住んでいた女が、ある出来事から人魚の肉を口にしてしまう。それで不死となり、生き続けねばならぬ辛い運命を背負った。やがて女は尼となって出家し、諸国行脚を経て命の真の意味を悟り、死を迎えたという話だ。八百比丘尼の名は玉椿姫、椿の花を手に持った姿で表される。椿は春の到来を告げる神花とされ、椿の群生する森は北陸から東北地方にかけての沿岸部には椿が群生する聖地が点在し、古来信仰の対象とされてきた。比丘尼が語るには、「永久(とわ)の命を得てもそれが何になろうか。吾の知る人々、知り合えた人のすべてが亡くなり去り往きて、ただただ己の身だけがこの世に残り、永き齢(よわい)を重ねても死ぬることが叶わぬ。はたして永遠の命を得ることが人にとって幸せなことといえようか?人は死の定めあればこそ、真の宝を手にする機会も得られようというもの。」と説き、死を前にした衆生の魂を救って歩いたという逸話である。命の悟りを得た八百比丘尼の心の願いは遂に叶い、空印寺(福井県小浜)の洞穴で入定し、肉の身は地から解き放たれたという。

八百比丘尼が入定した洞穴
〈古名の解説〉

※八百比丘尼(やおびくに):比丘尼(びくに)とは出家尼僧のことで、仏教用語における女性の仏道修行尼をいう。八百比丘尼は地域ごとに呼び方が異なり、はっぴゃくびくに(八百比丘尼)とか、おびくに(御比丘尼)などとも呼ばれる。また、白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。シラ(白)は《再生》を意味する古語で、 白比丘尼を長寿とするのは巫女(ミコ)のもつ霊的力のなせる業なのだろうか?とはいうものの、白比丘尼の紛(まが)い説もある。一説では、八百比丘尼と同じく、京の都を始め、各地に出没した白比丘尼は結構いたらしく、その実体は八百比丘尼ではなく、 八百比丘尼伝説を利用した芸能者ではないか?などといわれている。

※八百比丘尼の八百は歳(よわい)八百からきている。伝説では八百歳まで生きた比丘尼なので八百比丘尼と呼ばれたとある。気になる話に、八百比丘尼の父親は平安期に活躍した裏の陰陽師として知る人ぞ知る芦屋道満(あしやどうまん)だという。この人物は同じく平安期に活躍した大陰陽師として名高い安倍晴明(朝廷の裏の司とも呼ばれた陰陽頭=陰陽寮の長官)とはライバル関係にあった。

若狭とは直接関係しないが、晴明が大陰陽師となった理由として“龍宮”が関わっていたという伝説がある。安倍晴明は幼少期に“龍宮(阿波龍宮)”を訪ね“龍王”から霊力を伝授されたことで、鳥と会話したり、死霊を見たり、人の運命も見通したりすることが可能になった。やがて、賀茂家の陰陽博士に師事し、陰陽道を学ぶことになり、陰陽寮の長官にまで大出世したという伝説である。四国には阿波(徳島県)の他に讃岐(香川県) にも“龍宮”がある。「海女の玉取り伝説」を生んだ“志度龍宮”だ。この話を簡単に説明すると、

唐の高宗に嫁いでいた鎌足(藤原鎌足)の娘は、亡き父を弔うがために唐より三点の宝物を兄の不比等(フヒト)に贈ったが、その宝物を積んだ船が志度の浦に差し掛かかると突然嵐が起こり、「面向不背(めんこうふはい)の玉」という宝物だけが“龍神”に奪われてしまった。不比等はそれを取り戻すために讃岐の志度の浦までやって来たのだが、そこで美しい玉藻前(たまものまえ)という海女(アマ)と恋に落ちる。  海女は愛しい淡海(不比等の隠し名)のために龍宮に行き、龍神からその玉を取り戻し、乳房を切り裂いて玉を隠したのだが、その傷がもとで命果ててしまうという悲話である。この詳しい話は、龍神伝説〈阿波龍宮〉〈志度龍宮〉を検索してもらえればと思う。

〈晴明嫡流の説明〉
若狭と直接関係しないがとはいえ、実はそうでもなく、安倍晴明の直系の陰陽家が土御門神道を守り、天社土御門神道本庁として若狭湾に近い舞鶴市と小浜市の間にある大飯郡に今も存在している。

この話も若狭とは直接関係しないが、若狭の比丘尼に類する話なので話しておこう。秦河勝(はたのかわかつ)※1の子孫の逸話の中に“龍宮”が登場する。文武天皇に仕えた秦勝道(子孫)は家臣の奸計(悪い謀)で京の都を追われ、会津磐梯山の麓に流されたが、やがて村長の娘を娶り一女が生まれ、千代姫と名付けた。庚申講※2の夜、勝道の前に白髪の老翁(龍王か?)が現われ、勝道と従者たちは老翁の招きで“龍宮”を訪ねることになった。そこで山海の珍味や美酒に酔いしれ、宴も終盤に入った頃、「九穴の貝(くけつのかい)」という珍しい貝が出されたのだが、勝道は気味が悪く感じて、食べずに持ち帰った。帰宅すると、自分の服の袖に隠し持ち帰ったその貝を千代姫が見つけて食べてしまった。それからというもの、千代姫は頭脳明晰となり、芸能の才も優れたものとなって、さまざまな物事を見通すこともできるようになった。やがて、父の勝道も母も亡くなり、千代姫だけが残ったが、婿を娶ることを強く拒み、髪を落とし、比丘尼となって諸国を巡り、その類希な力をもって各地で奇跡を起こしたとある。その話の流れはおよそ八百比丘尼と類似している。

※1 秦河勝(はたのかわかつ)は日ユ同祖論によると古代ユダヤ人といわれている。秦勝道(はたのかつどう)は秦河勝から数えて三代孫にあたる。

※2 庚申*講(こうしんこう)とは、庚申待(こうしんまち)を行う講(同一の信仰を持つ人々による結社)のことで、古代中国の民俗宗教である道教の信仰的な風習が奈良時代から平安時代に日本に伝わったもの。その内容は「人間の頭と腹と足には三尸虫(さんしのむし)**がいて、 常にその人間の悪事を監視している」とされる。三尸虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(閻魔大王ともいう)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命を縮め、死後には地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕すとされている。そこで、講の人々は、三尸虫が天に登れないように、庚申の夜は講の人々が集まって神々を祀り、その後は囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。

*庚申(かのえさる):庚申は干支(かんし・えと)の十干十二支(じゅっかんじゅうにし)による庚申(かのえさる)の周期のことで、古来は、年や月、日、時間、方位までがこの干支を利用して決められていた。
**三尸虫(さんしのむし):人間の体内に寄生し、命の善悪を監視する生き物

若狭の地とその日本海周辺の「不老不死思想」は、中国大陸や朝鮮半島からやって来た人々が伝えた渡来文化がその底流にある。若狭は丹後だけでなく、伊勢とも深密な関係にある。それだけでなく、大和との関係も大ありなのだ。若狭と伊勢の関係をいうと、若狭にいた鶴が稲穂を銜えて舞い上がり(舞鶴)、伊勢の志摩の磯辺に舞い降りた場所に伊雑宮(イザワノミヤ:伊勢の龍宮)が建てられたとの伝承があり、また、伊雑宮は天照大神の遥宮(とおのみや)と呼ばれていて、そうすると、伊勢志摩の天照大神と若狭の鶴は何らかの関係がありそうだ。ひょっとすると、鶴って天照大神?いや、そんな訳ないだろう。

なぜなら、伊雑宮は籠神社と同様に“陸の龍宮”とも呼ばれていて、どちらの裏神紋も籠目紋であるからだ。天照大神は直接“龍宮”とは関係しないので、天照大神を鶴とするのはあり得ない。では、若狭にいた鶴の正体とは誰なのか?それを紐解く鍵は羽衣天女だ。羽衣を想像する時、それと重なって見えるのは白鳥(シラトリ)の白い羽になる。そして、白鳥(シラトリ)を字面で見れば白鳥(ハクチョウ)を思い浮べるが、当時のこの地域には生息していないから、白鳥は鶴あるいは白鷺になるのかも知れない。まあここでは鶴にしておこう。それで、羽衣天女といえば、そのモデルとなった豊受比売(トヨウケヒメ)になるので、ここで鶴はトヨウケヒメと繋がる。そうなると、伊雑宮に奉られているのはトヨウケヒメということになる。この解釈は伊雑宮の伝承とは異なるので、そんなことがあるはずがないとの意見もあるだろう。しかし、伊雑宮の裏神紋が海人族(海洋民族)の紋とされる籠目紋であること、トヨウケヒメの異名が真名井龍神(マナイリュウジン)であること、それに、龍女は“龍宮”にいるものということを考え合わせれば、そうなるか。いずれにせよ、とかく伝承の類には時の政変によって書き換えられることも少なくないので、事実かどうかは別として、「あるかも知れない極秘伝」の範疇にはなるけれど…。

若狭の龍宮〈2〉に続く

写真:PIXSTA

久世 東伯
太礼道神楽伎流宗家丹阿弥。1990年より京都伏見の稲荷山の神仙「白翁老」より「イナリフトノリ」の指南を受ける。2006年に京都にて太礼道神楽伎流を旗揚げ。翌年、神楽舞の動きを基礎にした「かぐらサイズ」の伝授のため教室を展開。著書に「イナリコード―稲荷に隠された暗号」「イナリコード外伝 日本の霊性、最後の救済」。 久世東伯が受けたご神託 【土公みことのり】PDF特別無料プレゼントしています。 久世東伯が受けたご神託 【土公みことのり】PDF特別無料プレゼントの購読申し込みはこちら
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